昭和40年10月22日 夜の御理解 ●
今日午前中の、奉仕の時でした。善導寺の原さんが佐世保におられます、御兄弟夫婦を(?)して二度目のお参りがあった。その弟さんの言われるのに、本当にあのこちらに帰ってくれば、勿体島のほう、里が、里ですが、勿体島、善導寺のほうもみんな信心するし、鹿児島にいっておる弟も、それから最近は佐世保におられますが佐世保に姉さんたち、姉婿さんが夫婦ともあの佐世保の遠いところから椛目にお参りするとが楽しんで、毎月お参りをしてくると。みんな自分の周囲が金光様、金光様としかも椛目椛目とこういうようになったから、自分も是非一片、連れて参ってほしいというて今日夫婦で参って見えたんですね。あー実に人柄も良いし、人ざわりがよい。ね、本当にまあなんていうですかね、まあ、あんな人のお家に言ったら、あー、その気分のよいお家がありますよね。もう、行ったら帰りたくないといったような夫婦とも本当に言いかたなんです。人間も出来ておられるようです。
そして言われる事が、もう本当に信心のあるもんでも勝たんようなことをいわれる。本当に一切何事にでも、感謝して頂いて、もし、困ったこと難儀な事があったらこれを神の試練と思うてこれを受けていく。それだけですからね、実をいうたら。お道の信心はもうそれを体得することですから。もう一切が有難いのである。自分の都合の悪いことや、難儀な事は、これは神様の試練と思うていけば、もう間違いないです。ね、本当に自分のような不親切なものがあるだろうかという様なことがない。
●実にそのお話をきいとってから、信心のあるものでも勝たんごたるなあと私は思わせて頂いて、最後にここでお取次させて頂いてから、もうお願いさせてもらいよりましたら、その方が片一方の手に、勿論、(手職)ですから片一方の手に持ちますよね、昔は(手職)というのがあった。手に持つ明かりなんです。小さい行灯みたいなのがついているですね。(手職)をこう持っておられるところを頂いた。成程、自分もそれで明るい、生き方が出来るし、又ここに集まってくる人も、この明るさに一つの、おー人柄なら人柄を慕われるといったようなものを持っておられるけれどもです、なら、自分もいうておられるけれども、自分は短気もんで、その、もう腹かいてはいかんと言うことが分かっておっても腹を立てる。すぐ、もちろんその後はまあ、水に流したようにすきっとするけれども、腹を立てるとこう言われるように、あれは自分の手に持っておって、(?)ポトッと落としたら終わり。もう真っ暗になっておるわけですね。
だから手尺ではいかん。手に持った明かりではいかん。自分の心に光を持てという御理解を頂いた。信心とはそこんところだと思う。それは信心があってもなかってもです、本当にあの手尺を持った人は沢山ありますよね。あんたん家はいつも明るい、物事を善意に善意に解釈したり、良いほうへ良いほうへと頂いて、という生き方、拝まなくても参らなくてもそういう人があるんですけれどもです、それはしかし手尺ですからいよいよ両方の手でつかんなんという時にはおかなければならない。ね。手尺ですから消える事もある。心に頂くところの、光というものは消える物ではない。信心とはその心に頂く光を頂く事。ところがその、果たしてです、その信心を頂いておるものが、心に本当に光を頂いておるものが、どれだけあるだろうかとこういう事です。どうでも、自分の心の中に光を頂く。そこにいわゆる神様の本当の御神意を悟らせてもらい、神様のおかげを頂いていく。いつも神様の御守護を特別に頂いておるという、日々、いわゆる有難いという生活の中から、生まれて来るところの心の光。どんな場合でも、ね、どんな場合でもそれを神様のおかげとして、頂かれる。ね。成程、神様の自然として受けていくと言う事も本当なのですけれども、その神様のその自然その事が実をいうたら有難い。ですから、そこをみな信心させてもらうものは、神様がこうして解らせて下さろうとする、神様がこうして自分の信心を育てて下さろうとしておるんだというところにです、もう自然というものをもう一つ通り超えてその事にすでにもう有難しという気持ちで進んでいくのが信心、だけれども、そこんところが、それだけのことなんだけれど、それだけの事を分かって、本当にその事を思い込んで、おかげを頂いているものがどれだけあるだろうか。
ただ、お願いをして、おかげを頂くという事だけが、まあ、だいただい信心というものを分域になってしまっている。それだけが信心。ですから、自分の難儀な事や困ったことや、都合の良い事やらは、もう神様抜きにして(?)事になったり、自分で信心を落としていったりしなければならないのである。いわゆる心に光がないから。ね。表行も信行も、一生懸命なお参りも、御教えを頂くということも、様はそこんところを頂かせてもらう為、自分の心に信心の光を自分の心に頂かせて頂く為に、これは心の中に掲げておるところの光ですから、どんな風が吹いてもいわゆるそこんところを信心は水にも流されなければ、火にも焼けないといわれるのはそのこと。ところがそのために信心が薄くなったり。いやなくなったりするという事はいかに、心に光を頂いてなかったか。やはり信心を頂いておっても、ただ何とはなしの人が持っておる信心の光、例えばなら、親先生なら親先生の光によってなら、どうやらこうやら信心が続いておるというだけの信心ではだめ。自分自身の心の中に掲げて折る処の、光でなからなければならない。様々な修行、一切がですその光をいよいよ光足らしめる為に、おかげを頂くのである。同時に思い込ませて頂く。一切がおかげなんだから。ね、もうだから目が覚めたら有難いち神様にお礼を言えばいい。お水を頂いても有り難い。もう居食住こうやっておかげを頂いておることでも有り難いから、感謝の生活をさせてもらう。困った時には、自分が難儀な思いをする時にはそれを、神様の試練と思うと、その事をやはり思い込むことなんだ。そして信心を進めていきよると、試練と思うておったその事もです神様がやはりそれは神様が力をつけて下さろうとする、働きであり、いよいよ、自分の心に大きな光を下さろうとする、神様の働きであり、いうならもうそれも、これもが一切がおかげであるという、頂き方が出来る所までです、そこん所を一つ思い込みが出来るところまで、信心を進めていかなければいけない。
世の中には本当に信心はいらんような人が沢山ある。ね。心掛けもいい、もう今日はお話を聞いて原さんから聞かせて頂いたんですけれども、夫婦の仲が非常に良いと。お嫁さん達が非常に出来た方。ね。ですから、もう成程拝まんでも、参らんでも、ね、例えばその、姉さん達は椛目があるから(?)すぐ神様にお願いしたり、お伺いをしたりしてみては進めていかれる。まあ私達はそれを自分でその、していかなならんけん、無理だって、きつい。しかも、そのきついといいながらもです、やはりその、本当のことを辿ってきておられるというわけなんですね。人間が出来ておられますから。ですから、そういう生き方もあるけれども、それでは、いわば本当の事ではない。
今日は久留米の(かわむらさん)が、昨日飯塚にいってから、(?)先生に会いたいと思うて行ったけれども、(?)先生が小倉に行っていておられなかった。でまあ、あちらにまあ、他の先生といろいろお話しさせて頂きよる中に、んー、本当にやっぱり世の中に信心がなくても、感心な人があるて言う事。その、もうなんか大きな商売をしておられるらしい。もうそれが一番初めはもう、本当に難儀なところからとにかく、ご飯でもなんでも、ご飯のお白湯をね、あの、醤油とかソースとかじゃ、あんな調味料を使った事がなかち。塩ばかりじゃ。ね、塩ばかりを舐めて生活をしてきたち。ある人に(?)が出来るまで。だんだん、だんだん、もう確実なお得意さんが百件出来た。そして、まあどうやら分からんお得意さんがもう百件ある。だから二百件あまりのお得意さんでも九州で何番目かといわれるくらいに成功しておる。その主人が言われるのにですね、もう大きな会社からいろんな招待がありますよね、北海道の夏に旅行とかね、えーその、全国にいろいろその絶対行かない。どんな招待を受けても自分はいかない。と決めておるとこういわれる。だからいかじゃった代わりにテレビをもらう。いかじゃったかわりと言って洗濯機をもらう。もう私共これだけいろいろ、電気器具があるがそういう風にしてもろたつばっかりち言うてその話されたというて話していましたけれどもね。確かに世間がそういう人がありますよ。(?)をしていわゆる儲けでた。けれども、儲けでしもうたその後がいかんと私は言うておる。今度は。それでは。信心の光、信心の徳を持って、これが積み上げられ、なされていくものでなからなければだめ。
それこそ、いわば、基礎を作らずに家を建てるようなもの。これは危ない事である。立ち上がった後がいかん。ですからどうでも、信心は無くても、様々立派な人があるんですけれども、ねそれだけでは信心の、特別に神様が下さるその、おー信心の喜びというものをですね、もって自分の心の中の光にして行くとういう、その信心を、蓄積して行く。ね、それが光の徳になる。吹いても照っても、降ってもね、それこそ火にも焼けなければ水にも流されないという信心。そこまで一つ信心をお互いが信心を進めていかねばならんと思いますね、どうぞ。
信心はしておってもね、手尺を持っている人が沢山あるんですよ。だからもう、本当に人柄がいい、ね、なかなか修養も出来ておる、だから、明るい生き方をしておる、という人があるんです。おる事は。信心をしておっても、だから、むしろそれはまず金繰り捨てなければいけない、それはむしろ捨てなければならない。そして、自分の心の光から放つ所の光で歩いていくというおかげに事なってこなければほんなことじゃないと思いますね。 どうぞ